尾台榕堂(おだい ようどう)漢方医学の巨匠

地元 中条から出た 漢方の名医

幕末期の漢方医として、浅田宗伯とならぶ名医である。

現代の漢方医学の手本となる医師が尾台榕堂である。 

1799年(寛政11年) 中条村下町の稲葉小路 (今の中条小学校)の付近で

だいだい医を営む小杉三貞、キクの第四子として生まれる。

(旧姓 小杉 幼名(四郎治) 元服して元逸(げんいつ)と名乗る。

 少年時代から祖父、父に医学の手ほどきを受ける。

13才の時、父、祖父が相次いで亡くなった。円通寺の住職 惟寛禅師の知人の

亀田鵬斎からの紹介で1814年 尾台浅嶽に学ぶ。

その間ににも1816年 亀田塾にて儒学も学ぶ。

数年がすぎ尾台浅嶽の片腕となる。

浅嶽には子供がいなく、奥さんも亡くなった。

そんな中 中条の兄さん羅斎(三省)=漢方医 が、重い病にかかり、

1824年(文政6年)に中条に呼びも出される。

兄の病気も回復し 1825年  十日町の医師 河本道一の娘(里世)と結婚する。

中条で患者を治療している間でも、貧しいものからはお金をもらわず

、薬を与えた。1834年(天保5年)(36歳)

江戸の大火災が起き 尾台浅嶽の家も焼け、その心労で亡くなった。

浅嶽は再婚して子供もいたが、奥さんから

尾台家を継いでほしいと頼まれる。江戸に行った榕堂は仮小屋で診察した。

1年後には待合場に人が入りきれなくなり、立て替える

弟子も増えていき塾の名を「尚古堂」という

 越後から来た弟子もいる 30年ほどで300人が全国に巣立っていった。

そんな中 1861年幕府から医師の依頼があるが「私は町医者で将軍さまも、

大事だが百人の庶民には百の病気がある」と、断った。

再三 依頼がくるので 

「むこうが飲めぬ条件を出せばこなくなるでしょう。」と、三つ条件をつけた

*頭を剃らぬ事 (御典医は丸坊主にしなければならなかった)

*常時 勤めるのでなく 御用の時だけとする

*庶民の診断も認めること

だが、意に反し、幕府から「承諾する」と返事が来た。

こんなわけで しぶしぶ 14代将軍 家茂公の侍医になつた。

(家茂公は16歳の弱々しい少年であつた)

それから数年後 榕堂は隠居し、

家督を 師 浅嶽 の嫡男 良卿にゆずった。

1870年(明治3年)11月29日、巣鴨で72歳の生涯を閉じる。

榕堂の医術に対する情熱と大きな人間愛は、

多くの人々に感銘を与え、今でも伝えられている。

残された多くの榕堂の書いた書物は、

現代漢方学界の教科書的存在になっている。

明治以後西洋医学が発達してくるが、いま再び漢方医学がみ見直されている。

何冊も書いているが、人気のある書は『類聚方広義』で、現代まで何回も複製本されたが、

たちまち売れきれになる。

この本の人気がうかがわれる。

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