明治の人  杉本周徳
杉本周徳は「明治の人」であったと、いわれるゆえんは、明治の良き気質、狭気をそのまま貫いた人の意味である十日町市中条の漢方医杉本周の長男に生まれ、体は弱く大病したこともある。1863年江戸に上がり、郷土の先輩である尾台榕堂のもとで医学を学んだ。入塾後わずか一年半で塾長となり22歳の若さで外科、産科の資格を修得、榕堂の片腕として研鑚をかさねていたが、父の病が重いとたよりがあって帰郷した。文久2年に同郷の河本杜太郎が参加した坂下門外の変があり、徳川幕府が崩壊きわまりない江戸にあって、脇見もふらず、医学一筋の道を歩んだ周徳の青春が、後年に「明治の人」言われる要因になった一つでもある。「医師は、本質は人間そのものの救済にあり、医は仁術といわれるゆえんである。」と考えていた自宅で寺子屋教育を始め後年に漢学塾を開設する。特筆すべきに演説会の開催がある。友人とともに明治12年開催したのが最初といわれ、国情、世相、人の道、時事問題の解説も、加えられた。明治35年の八甲田山遭難の追悼演説は庶民に感激をもって語り継がれている。医者の待合室に「余裕があったら入れてください」と籠をつるし、特別な請求もしなかった。後継者の育成の奨学金を大正13年に設立し多くの少年に進学の道を与えた。太平洋戦争の時代の流れによって財団は、十日町高校図書館建基金に振り替えられて再生された。昭和3年11月10日に帰れぬ人となった、85歳であった。


円通寺の推寛和尚
推寛和尚は、十日町市中条の桂沢山円通寺の14世である中条村峠の佐藤家に生まれ、幼い頃からその偉さは近隣に認められていた。6歳で円通寺にはいり、幼、少年期を過ごし、長じて江戸の駒込の吉祥寺で学ぶ事数年、越後寮学監の職についたやがて帰郷し、郷土の後輩育成をはかろうと妻有学舎を開設し小杉ら斎、岡田雲洞、尾台榕堂などの多くの人材を育てた。妻有郷に幕末期に中深見村船山に高橋赤山が開いた赤山塾と和尚の妻有学舎の二つの私塾に多くの者が学んでいた。色々の逸話のなかで 小正月の鳥追いにホーリンドウ(法輪洞)の名前が今も使われている。現在に境内に航空士官の像は、現在の渡辺賢一和尚自身が、特攻出撃直前に終戦になり、たまたま生きることができた。矢田部海軍航空隊の仲間に呼びかけて建てた、特攻で散った仲間の慰霊碑である。戦友のみならず、庶民を愛してきた、円通寺の代代の姿勢、気持がわかります。


岡田家4代

十日町市中条の岡田家は代代優秀な人物を出し妻有郷に功績が多い家柄である。わかりやすいように一覧にしてみました。

岡田喜兵衛 詩文、書画の文才
喜兵衛の長男
栄蔵
推寛和尚に学び尾台榕堂などと親交があり、詩、書画は雲洞と号し、有名で
(嘉永年間)越後4大家の2番目にあげられる
喜兵衛の弟
寛蔵
俳句、
柏崎県の測量掛け、後に明治7年中条郵便局長
岡田竜松 初代中魚沼郡長、県会議員、衆議院議員
信濃川護岸工事、十日町橋の建設を具体化
竜松の弟
正徳
内務省会計検査課長、県会議員、
書画、は梅壑と号して後進者を育てた
竜松の子
正平
19歳で中条村村長
魚沼鉄道、魚沼水力発電、はじめ郡内開発に貢献
明治44年県議当選
昭和22年民選初めての新潟県知事に当選8年間県政を行う
正平の弟
賢次郎
富士山の写真で世界に有名


春川新道
十日町市の国道117号から20km西枯木又は南魚沼郡境に接するところである現在 県道 城内--焼野線に指定されているが、
始めは、春川元七 が個人、私費を投じて身を削りながらつくられた道路である元七は西枯れ木又に生まれ、やがて農業技術員とし郡内の指導にあたり、やがて中条村の収入役を経験したことが彼の半生の素地となる。公職にいると開発に制約がでる、あくまでも個人的に推進しようと決める。辺地の道路開発など見向きもされない時代で、個人の力では限度がある。用地、資金は公的なものがある、村の同は得られてもね県は真剣に態様はしない。何十回も県に陳情し県も同情し始め、次第に現実にむかていく。西に中条に出るのに24kmあるのに、春川新道を通ると13kmで上越線沿いまで出る。地元民は辺地の方が汽車に近くなった。とその努力は大きく評価された。




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